2018年2月18日日曜日

(少々ネタバレ)ちはやふる194首&195首所感


昨晩、
密林に発注していた本が届いたのだが、
その中に社会人文学分野で用いられる学術用語としての
「構造主義」ということばの定義記述があって、

一般的に使用される同文言とは
異なる趣きで用いられていることに興味をひかれたので、
備忘のために記しておく。

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「構造主義という考え方とは、
 何事も最初から本質的な性質を備えているわけではなく、
 さまざまな作用のなかでそう構築されてきた、と考える視点」


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経験知として我々はこういった視点と認識を
ぼんやりと持っている気がするのだけれども、

あらためてそのような視座からじぶんを振り返ってみたとき、

じぶんというものの組成には
周囲のまなざしによって構築されてきた部分が
確かにあるかもしれないな、いや、あるのか。…んん?
むしろおおいにあるとかいえるのではないか?…とか思えてきて、
ちょっと、おぉ…となった。

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してみると、
現在その戦法がちょっとした物議を醸している某彼も、
今はアレな感じであったとしても、

かくあれかしと友や先達にまなざされるという作用の中で、
いずれは“なりたかったじぶん”に到達することができるのではないか。

特に、
何があっても彼のことを諦めないふたりの友の寛容のまなざしは、

“ふたりの居るところに行きたい”という彼の心底の願いを
あるべき軌道に設置しなおすはたらきがあるものと考える。


(…それにしても…ふたりとも彼のまるごとを本当によく受け入れている。
  なかなか出来ることではない。しかもその年齢で。
 じぶんたちが彼から受けた悲しい振る舞いについて、
 例えば周囲から許さなくていい、とどれだけ言われたとしても、
 きっとふたりはそのままの彼を受け入れるのだろう。
 ふたりにとってそういった一切は赦す赦さないの次元のものでは無いのだ。
 かるたを通したふたりの彼に対する信には凄みがある。
 ある意味尋常ではない、と言ってもよいかもしれない。
 この恐るべき寛容の源はなにか、と思わずにいられない。)

だが、
ものごとが適切に“熟成”するには
整備された環境とともに、“一定量の時間” が必ずや必要である。

ので、
彼のあらちはステージへの到達という変容には
まだ暫く時間が必要になるのだろう。

(…ということで、
 26巻からずっと待機させられてますが、まだ掛かるのか…長いよ…。)

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ところで、
「時間」といえば、

彼が今あの様な戦法で
いわゆる競技の王道に対抗して勝ちを得ようと奮闘しているのは、
まさに「時間」をショートカットするため、と、いえるだろうけども、

(本来ならば時間の積算としての
 “練習量” が強さという “質” に変換されるのが
 様々な競技における定石であるところ、
 物語上、彼が即席に高位者に伍するためには、
 量質変換に必要な「時間」を省略、あるいは無視する必要がある。)


仮にこの戦法で勝利を得たとして、
かるたという競技の本質(e.g. 音の聞き取りと聞き分け、取りの速さとその技法、
戦略的な札の位置と送り札の選択等々…)に照らしたとき、

彼はその勝利を心底清々しいものとして
受け取ることができるのだろうか、という懸念がある。

つまり、
実利を得る為にトリッキーな戦法で得た勝利に対し、
基本的に心根が生真面目である彼ははたして納得ができるのか、という懸念。

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確かに、
勝負の世界においては「勝利」こそが絶対善である。

よって、
彼がメンタルトリックを戦法として採用し、
勝ちをもぎ取ろうとすることじたいは恐らく誤りではない。

しかし一方で、
勝負の世界には「グッド・ルーザー」という言葉も存在しているのである。

なぜか。

それは、結果として勝負に「負け」たとしても、
その競技における “本質的な勝負” に果敢に挑み、
健闘した選手に対しては、その姿勢と事実そのものが称えられて然るべきである、
という、フェアネスを尊ぶ精神が “技を競う世界” の根底にはあるからだ。

ゆえに、
メンタルトリックは勝負における数ある技巧の一種ではあっても、
競技の本質に照らしたとき、やはり傍流に位置づけられるしかないものである、
と、わたしは考えている。

であるから、
個人的にはメンタルトリックの過度の重用については
擁護の姿勢をとることはできない。

が、彼の場合、
試合の導入部に “猫騙し的” に仕掛けるにしては散髪までしてきてしまうとか、
なかなか気合いのこもった仕込みをしてきているわけで、

とにかく、
東日本大会で「試しに来ただけだ」「試合は譲(る)」とか言っていたことを思えば、
本気度、というか、挑戦者決定戦に対するそれなりの真剣度は伝わってくるので、

“じぶんのための「誰かのため」” とか、
“キャピった「千早のマネ」” を挿入してくる事態には
正直モヤモヤはさせられるものの、

これももうこの際 “彼の特性” として納得するほかないのだろう。

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それにしても、
「その顔が見たかった」のか…。


(ドS、アンド、性的。)

じぶんが行き着きたい、と、願う場所にいるその相手を
無理矢理じぶんと同じレベルに引きずり下ろして叩きのめそうとするその矛盾…。

そうまでしないと彼は自縄自縛の不幸から抜け出すことができない、
という理屈は分かるのだけれども、

そのような図式では
むしろ彼の人間としての度量の狭さをあからさまにしてしまうばかりなので、
なにか他に方法はなかったのか、とも思う。

が。
この経験を糧に、彼は男としての度量をデカくしていく、という、
そういうストーリーが用意されているがゆえの、
今の悪党ぶりなのだ、とすれば、致し方なかろう。

(なんだ、この「致し方ない」という言葉ににまみれた書きぶりは…)

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ダラダラと書き連ねてしまった。
起承転結が無茶苦茶である。

なお、
冒頭の本の話からだいぶ横道に逸れてしまったけれども、
今回の結論は、

ローリング・ストーンな若者たちの見守りっちゅうものは
なかなか根気のいることよのぅ…、ということです。

はい。


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ちなみに、
冒頭の書籍情報を参考までに。



「うしろめたさの人類学」 /  松村圭一郎  / ミシマ社



ざっくりと概要を紹介しますと、
エチオピアでのフィールドワークを下地に
「贈与論」の視点から、公平な社会に至るための可能性を探る、という内容。

ご興味があれば、どうぞ。